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No More Sorrow





黒崎一護や朽木白哉たちが、零番隊に連れて行かれる前の出来事―




正体不明の滅却師たちが尸魂界を襲ってから、間もなく。
技術開発局の情報通信室は、前線と同様の慌ただしさだった。次々に情報が寄せられ、その分析と報告に、局員たちは奔走していた。
電算機のキーを叩く音、指示を出す怒号、前線からの、悲鳴に近い報告―




そんな周囲の喧騒が少し苦痛になってきたことに気づき、阿近は静かに目を閉じる。
―さすがに、ぶっ通しは無理か…
そして眉間に深い皺を寄せ、小さく溜息をつくと、近くにいた局員に言った。
「…少し、帰ってくる」
けれど、その場にいた局員の誰一人として、阿近に不平を言おうとはしなかった。
「了解しました」
「…ゆっくり、休んできて下さいね」
「あぁ」
阿近がここ数日、寝ずに激務をこなしていることを、誰もがよく知っていたのだ。




阿近の自宅は、技術開発局からほど近い場所にある。
けれども、局に籠って研究をしていることの多い家主が、この家に帰ってくることは稀だ。
それでも、僅か2部屋ほどしかない小さな家は物にあふれ、床には足の踏み場しか残されていなかった。
形ばかりの洗面所には実験器具が並び、寝室も寝台だけがかろうじて残されていて、辺りには本や資料が山のように積んである。




その合間を器用に通り抜け、寝室に入った阿近は、ふと自分が白衣を着たままであることに気づいた。
少し考えて、億劫そうに袖を脱ぐ。雑に脱いだせいで、白衣の裾が資料の山に触れ、音を立てて崩れる。
その音に、反応する声があった。
「…む…」
声のした方を向いて、阿近はようやく寝台に誰かがいることに気付く。
もぞ、と動いて薄い掛け布団から顔を出したのは、朽木ルキアだった。
「すまぬ…」
ぼんやりと両目をこすりながら、ルキアが体を起こす。
「・・・浮竹隊長から、少しだけ休むように言われたのだ」
そう言うルキアの顔にも、疲労の色が濃かった。
慣れない副隊長任務に加えて、この騒動だから、なおさら堪えているのだろう。
「だが隊舎で休むのは気が引けるし、朽木家の屋敷も、使用人たちが落ち着かぬからなかなか休めぬし…ここなら静かだろうと思ったんだが―」
なおも、言葉を続けようとして口を開いたルキアに、阿近は手にしていた白衣をばさりと投げつけた。
「な…っ」
「しゃべり続けるな。頭に響く」
それだけを言うと、ルキアの隣に、どさりと横になる。
「眠る」
少し間があって、ぎし、とルキアが起き上がる気配があった。
「じゃあ私は隊舎に―」
寝台を降りようとしたルキアの腕を、阿近の手がぐいと引っ張る。
バランスを崩したルキアは、窮屈そうに上体をねじったまま、阿近の顔を覗き込んだ。
「阿近」
「寝ろ」
「しかし…」
「何度も言わせるな。俺は疲れている」
それでも帰ろうとしたルキアは、阿近の腕が離れないのに観念して、身体の力を抜いた。
そのまま再び寝台に体を転がすと、再びどんよりとした眠気がやってくるのが分かった。
浮竹からもらった休みは、あと数時間残っていた。どうせこの部屋を出ても、行く場所などないのだ。だったら、ここでまどろんでいた方が、いくらか有意義かもしれない。




そっと阿近の胸元に顔を寄せると、細長い腕が囲うようにルキアを引き寄せる。
そのままぎりりと腕に力を込められて、ルキアはくぐもった声を上げた。
「痛い、阿近」
それでも、阿近が力を緩める気配はない。ルキアの上半身を、逃すまいとするかのように、強く抱きすくめる。
「苦しいではないか、一体どうし―」
「しゃべるな」
ぴしゃり、と言いつけるのは、いつもと変わらない。
けれども、その口調にいつもとは違うものを感じたルキアは、阿近の顔を隙間から仰ぎ見た。
青白く険しいその顔は、ひどく疲れてはいるけれど、いつもの阿近の顔だ。
けれど。
間近で見る尖った顔立ちの上に、疲労とは違う、切迫した気配があった。いつも、人を馬鹿にしているのかと思えるくらいにマイペースなこの男には、稀有なことだった。




腕章を付けたままのルキアの腕が、阿近の背中にそろりと伸ばされる。
「大丈夫だ、阿近」
幼子をなだめるように、ルキアの手がそっと、阿近の背を撫でる。
「阿近、大丈夫。大丈夫だ」
何が、とも誰が、とも互いに言わなかった。
ルキアが撫でる、衣擦れの音だけが静かに響く。
それ以上交じり合うことのない、互いの体温が指先に温かい。




しばらくして、阿近が小さく息を吐く気配があった。
「…寝ろ」
返事の代わりに、ルキアがぎゅっとしがみつく。もう一度、腕に力を込めた阿近が、鼻先をルキアの髪に埋める。
張りつめた思いが、指先にこもる。








それから二人は、つかの間の深い眠りに落ちた。
二人きりの静かな時間が、もう二度と訪れないかもしれない、という予感をそっと押して―











こんな僅かな時間があっても良いんじゃないかなぁ、と…

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