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所有権





こんこん、と扉を叩くと同時に来訪者は部屋に入り、名乗りもせず、短く言った。
「ご苦労だな、阿近」
「あぁ全くだ」
阿近は情報端末の画面から目を離すことなく、不機嫌そうに答える。
ルキアがやって来たことは霊圧で分かっているので、阿近は構わず仕事を続ける。



「何か手伝えることはあるか?」
その言葉に阿近は顔を上げると、意外な、とでも言うようにひょいと片方の眉を上げた。ルキアが机の横まで来て、伏し目がちに答える。
「今日は非番なのだ。ちょっと近くを通ったのでな」
互いが、病弱な上司と偏狂な上司をもっていることを知っている。そして、そのツケが部下に回ってくることも、身をもって知っている。阿近はルキアの気まぐれを拒まなかった。
「なら、これを押せ」
ぞんざいに手渡された書類と、その上に乗せられた印鑑を受け取り、ルキアは戸惑いの声を上げた。
「く、涅隊長の隊長印ではないか!良いのか?」
「うちの隊長は、気が向いた書類しか見ない。いっつも俺が押してんだ」
「し、しかし…」
「じゃ、俺の代わりに始末書を書くか?」
阿近の細長い指が、とんとん、と端末の画面を叩く。ルキアがちらりと目をやると、画面には見たこともない単語がずらりと並んでいた。
「…判を押す」
少し間があってルキアが言い終わると同時に、どさり、と机の端に紙の束が置かれた。



この遠慮のなさが阿近であって、無神経だとか無礼だとか言われていることを、ルキアも知っている。
それでも阿近が、技術開発局の中で大事な立場に立っているのは、局員としての年数が長いことと、全体を見渡す頭脳があること、そして多少の苦労は買って出るくらいの、配慮ができるからだ。



阿近の机の端に丸椅子を寄せると、並んで座って、ルキアはとんとん、とマユリの隊長印に朱肉をつけた。
端末を操作する機械音、紙をめくる音が淡々と響く。




気が楽、というのはこういうことを言うのだろう、とルキアは思う。
十三番隊では、まだ副隊長という呼び名と立場に慣れなくて、妙に肩に力が入ってしまうし、少し距離が縮まったとは言え、義兄にはやはり気を遣う。旅禍騒動が終わってから、急に親しげな態度になった大勢の見知らぬ死神たちにも、うんざりするところがないでもない。
けれど、自分に対して以前から、そして今も、配慮や気遣いの乏しい阿近の態度は、気を遣うことを忘れさせ、ルキアにとって心地よかった。






小半時ほど経って、ルキアは書類の束を揃えると、ふぅと小さく息を吐いた。
「終わったぞ」
「早かったな」
阿近の細長い指が、するりとルキアの髪を撫でる。頬に当たる毛先がくすぐったくて、ルキアは小さく笑った。
「そうそう、私も印鑑をもらったのだ」
ルキアの声が、わずかに弾む。袂を探る動きを、阿近はじっと見つめた。
護廷十三隊では、隊長と副隊長に専用の印鑑が渡される。三席以下とは違い、圧倒的に重要な事案に関わることが多いためだ。
マユリのそれよりは小さな印鑑を、ルキアは机の灯りにかざした。
「使うことはあまりないがな」
阿近が相槌を打つことは少ない。けれども、自分の話を聞いていることは分かっているので、ルキアは構わず話を続ける。
「自分の持ち物に押すことにしたのだ。名前を書くより楽だしな」
その横顔を見ながら、印鑑をもらうのがそんなに嬉しいことか、と阿近は不思議に思う。
印鑑をもらう、ということは書類仕事が増えるということで、つまりは雑事が圧倒的に増えるということだ。
さらに言えば、昇格するたびに雑用が増えるので、阿近にとっては三席にいることも面倒そのものでしかない。




ふと、ルキアの視線が阿近に向けられる。そしてその腕が自分のほうへ伸ばされた、と思った瞬間だった。




ぺったん。




阿近の額に、微かな凹凸の或る、硬い感触が押し付けられた。
視線をやると、額に硬い物体、それを持つ華奢な手、その向こうにルキアの顔がある。
ルキアは更に念入りにぐりぐりと押し付け、ようやく離すと、至極満足そうに頷いた。
「うむ。これでよし」
「な…」
「じゃあな」
そう言って立ち上がったルキアの腕を、阿近は掴んだ。
「何のつもりだ、おい」
ぐいぐいと指先で額をこすっても、印鑑の跡が取れた気配はない。
「消えぬよ。その判は貴様らが開発したのだ、知っておるだろう」
「何のつもりだ」
「自分の物、の証しだ」
まるで自分の名前でも言うような、当然のことのように告げられた言葉に、阿近はしばらく思考が止まった。そしてようやくその言葉の意味を理解して、
「…く、くっくっく」
阿近は、笑いが止まらなくなった。




―想定外。全く想定外だ、この言動。
阿近にしてみれば、たいていの死神の行動は予想の域を出ないし、陳腐で退屈だ。
けれども目の前の、発達不良を思わせる小さな死神は、時折思ってもみない行動に出て阿近を楽しませる。
科学者にとって想定外とは、困惑でもあり、知的好奇心のこの上ない刺激でもあるのだ。






なおもくつくつと笑い続ける阿近を前に、ルキアは怪訝そうに顔をしかめた。
「普段笑わぬ奴がこうも笑うと、気味が悪いな」
その細い腰をぐいと引き寄せて、不気味に笑う鬼は口の端を釣り上げた。
「おい、主と従を間違ってるだろう。誰がお前の物だ」
「貴様が、だ。違うか」
疑いもなくさらりと吐かれる言葉が、阿近には愉快でたまらない。
曇りのない双眸を見ていると、もはや主も従もどうでもよくなってくる。






「飼い犬に手を噛まれるなよ」
「貴様が噛まぬように気をつければいいだけの話だ」
不遜に言い放つ美しい顔は、わずかに阿近を見下ろして、にやりと嗤う。






絡み合った視線にゆだねるように、二人の影がゆっくりと近づく。そしてそっと優しく、唇を重ねた。










裏に…続くかも、です。

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