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unconditional





そこにいる、と分かっていたはずなのに、そこにいたのは、まるで別の死神だった。




尸魂界のはずれにある小高い丘、そこにそびえる大木のふもとに、ルキアは一人、立っていた。
今朝から雨が降っていた。
初冬の冷たい雨が全てを灰色に染め、温度を奪ってゆく。その景色の中、雨に溶け込むように、濡れたルキアが立っていた。いつもの、颯々とした様子は欠片もない。
他の者なら、ルキアがここにいることすら気づかないだろう。




びしゃりびしゃりと泥濘を近づく下駄の音を、ルキアは聞いているのかいないのか。
傍らに寄っても視線は変わらず、遥か彼方、重たい空を見つめ続ける。水を吸った下駄の歯が、がりりと木の根を噛む。その時ようやく、ルキアの細い眉がぴくりと動いた。



漆黒の髪から雨粒をしたたらせながら、顔を上げもせず、ルキアは独り言のように尋ねた。
「雨は好きか、阿近」
阿近は問いに答えず、傘をルキアに傾けた。
「私は好きだ」
ぽつりとこぼれた声は、この長雨に不似合いなほど乾いていて、既に温度を失っていた。






何を考えているのか、など自明のことだ。
こういう雨の日は決まって俯きがちで、それでいて目の前の物など何も見えていないような、遠い目をして此処にいる。
過去に囚われるなど無駄だ、などと説教をしたところで、その言葉すら届かないのだから仕様がない。
死んだ者―正確には自分が殺した者―への追憶に沈み込む姿を、ただ傍らで視ていることしかできないのは、阿近にとっては遣り切れない、それでいて、ただ己だけがこの存在の傍らにあるのだ、という占有の時間でもあった。






ルキアはついと阿近を見上げると、冷ややかな声のまま告げた。
「ついて来い、阿近」
「もとよりそのつもりだ」 寸分も置かず答えて、阿近は冷え切った小さな手を取った。
濡れて重くなった睫毛の合間から、静かな表情で、ルキアは阿近を見つめる。
「私は何処へ行くか分からぬぞ」
「だからどうした」
「遠く彼方に行くかもしれぬ。喜びより痛みを選ぶかもしれぬ。今日を捨てて過去に行くかもしれぬ」




ぼたぼたと落ちる雨の音が煩わしい。
耳を支配するのはこの声だけでいい、と望んでいるのに、世界はあまりにも無駄な音で溢れている。
紫紺の瞳は、澄んでいた。
後悔やら躊躇いやら、阿近には縁の無いものにがんじがらめにされているようなルキアだが、大きな双眸は、むしろ阿近のそれよりずっと、澄み切っていた。
「だがついて来い、阿近」
そう言って、ルキアは浅く笑った。




何処に行くかは分からぬと言う。
生も死も保障できぬと言う。
だがついて来いと言う。
あどけない子供のような、それでいて達観した古老のような、無情の言葉。
この濁りない傲慢さが、阿近を縛り、圧倒し、酔わせる。




ひざまずき、白い指先に、そっと口付けを落とす。
白衣の裾が泥濘に埋もれ、濡れた感触が膝元まで登る。温度の低い自分の皮膚と、大切な指先とが、冷たく重なり合う。
ああこの冷え切った指先が俺を導くのだ、と思えば、臓腑の奥から熱い愉悦が湧き上がる。
この存在、この瞬間が、阿近にとっては万物を潤す慈雨なのだ。



雨に打たれた草木が為す術もなく地にうなだれるように、阿近もまた深く、そして少しの疑いもなく、頭を垂れた。








「この身この存在のすべてを、お前の為すがままに」










unconditional「無条件の;絶対的な」


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