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無心行為





言いようのない気だるさの中で、ルキアは目覚めた。



部屋の障子に映る光は明るく、とうに日は昇っているらしい。
ゆるゆると布団から立ち上がり、障子を開ける。と同時に、生暖かい風が勢いよく入りこみ、ルキアは思わず目をつむった。




昨夜は随分と風が強かった。
ごうごうと木々を揺らす音を聞きながら、それでもここ数日の任務で疲れていたルキアは、布団に入るなり、すこんと寝てしまった。
寝ている間、風は一晩暴れまわったらしく、濡れた落ち葉が庭に散らばっている。名残の風が時折吹いては、障子をがたりと揺らした。



―これでは桜が散ってしまったな…
屋敷の敷地内には、幾本かの桜が植えられている。昨日、そのどれもがようやく満開を迎えて、ルキアは少しばかり浮き立つ気持ちでいたのだ。
桜の花びらは脆い。あんな風が吹いてしまっては、ひとたまりもないだろう。
少しうつむき加減で、ルキアは身支度を始めた。




機械的に手を動かしながら、ぼんやりと記憶を探る。
起きる直前まで、何か夢を見ていたような気がするのだが、どんな夢だったのか、どうも思い出せない。
きっとあまりいい夢ではなかったのだろう。後味の悪さだけが、じんじんと頭の奥に残っていた。







部屋を出て、洗面所に向かっていると、向かいから侍従の清家がやってくるのが見えた。急須と湯飲みを載せた盆を持ち、ルキアの前で立ち止まると、軽く頭を下げる。
「ルキア様、おはようございます」
「おはようございます」
清家はルキアの着物に目を留め、ふと微笑んだ。
「よくお似合いでございます」
そう言われて、ルキアは自分が着ている物を見た。
生成りの地色に、薄い臙脂の桜が散る小袖。淡い水色の帯。
意図して選んだつもりはなかった。無意識、というやつだろう。ルキアは老人の柔和な顔を見上げて、少しだけ苦笑した。取り繕うように、盆に目をやる。
「兄様の、ですか?」
「はい」
「私が持って行きます」
「これはこれは。ではお願いいたします」



旅禍騒動以来、わずかながらも義兄妹の距離が縮まったことは、屋敷の者たちも気づいていた。ぎこちなく遣り取りを交わす二人の様子を、屋敷の者たちが微笑ましく見守っていることは、ルキアも分かっている。
少しくすぐったいような思いで、ルキアは清家から盆を受け取ると、義兄の部屋へと向かった。








白哉の部屋の近くまで来て、ルキアは足を止めた。
部屋の前の廊下に、無数の桜の花びらが散っている。
白哉の部屋から少しだけ離れたところに、桜の巨木がある。どうやら春の風は、その花びらまでも散らしているらしい。
―でも、綺麗…。
ルキアは静かに足を進め、部屋の前にそっと座った。着物の裾に煽られて、足元の花びらが微かに舞う。
風に吹かれてはらはらと降ってくる淡い欠片を眺めていると、まだ、自分は夢の続きを見ているような気がした。




どれくらい経っただろうか。
唐突に、障子の戸が開いた。視線を上げると、白哉が立っている。
「あ、お茶をお持ちしました」
ルキアが来ていることには気づいていたのだろう。なぜ清家でないのかも問わず、白哉はわずかに頷くと、部屋の中に入った。一礼して、ルキアもその後に続く。






玉露の香りが、ゆらりと漂う。
開け放ったままの入り口からは、ひらりひらりと桜の花びらが舞い込む。
いつものルキアなら、「部屋が汚れてしまう」と言って戸を閉めただろう。
だが寝覚めの悪さのせいか、まだうまく頭が回らないルキアは、そろりそろりと広がってゆく桜をぼんやりと眺めていた。



綺麗だ、と思った。
愉快だ、とすら思った。
いっそこの部屋が桜で埋め尽くされてしまえばいい、と思った。
この、何もない清く澄んだ部屋を、薄紅色で染めてしまえばいいのだ。






たゆたう思考を破るように、白哉が口を開いた。
「今日、出入りの商人が来る」
「はい」
「何か欲しい物はないか」
ルキアはしばらく考えた。
「いえ特に…」
「欲しい物はないのか」
「欲しいもの…」
風の塊がどうと入り込み、桜の淡い花弁が、ざわりと畳みに広がる。
まるで生き物のようなその動きにじっと視線を落としたまま、ルキアは言った。
「ないわけではありませんが…」
煮え切らない返事に、義兄は短く言った。
「欲しい物があれば遠慮なく言うがいい」







この人はいったい何を言っているのだろう。
ルキアは、ふつりと苛立ちが湧いてくるのを覚えた。義兄に対して、そんな思いを抱くのは初めてだ。
なんて無知な問いをする人だろう。
なんて残酷な問いをする人だろう。
この問い方は、恵まれた人の問い方だ。
欲しくても手に入らないことを、知らない人の問いだ。
苦しさを知らないのだ、この人は―




白哉がお茶を飲み干すのを待って、ルキアは腰を上げた。
義兄の隣に跪き、差し出された湯飲みを受け取ると、盆に置き、急須のお茶を注ぐ。
急須から漂う濃い香りが、ルキアの神経をぞろりと撫でる。








ルキアが動いた気配に、白哉は片手を差し出した。
が、湯飲みは手渡されなかった。
怪訝そうに見遣った義兄の視線を感じながら、ルキアは差し出された手をそっと掴む。
そして綺麗に揃えられた指先に、柔らかく唇を添えた。
驚いた白哉の指先が、びくりと震える。ルキアはいとおしげにもう一度、そして今度はゆっくりと口付けを落とした。
互いの体温が交わる。義兄の長い指が、硬直するのが分かった。



「―ルキ」
「では…」




風が吹いた。
薄紅色の花弁が吹き込み、二人の足元まで転がりこむ。
ようやく唇を離すと、ルキアはゆらりと白哉を見上げた。




「では私にくださいませんか」



さぁ、貴方も苦しめばいい。







「兄様を」










「背信行為」が好きだと言ってくださった、先輩ママさんに捧げます!
リクエストありがとうございました。随分遅くなってすみません…!ルキ→白、にしてみましたがいかがでしょう?


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