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どうかしている





「ただいま」
ちゃりん、と音を立てて、部屋の鍵を靴箱の上に置く。
一人暮らしのアパートなのに、つい「ただいま」と言ってしまうのは癖だけれども、それでも最近、変わったことがある。
「おかえり!待っていたぞ!」
返事が、あるのだ。
廊下の奥からぴょこぴょこと現れたのは、長い耳と長い尾を持ったピンク色のぬいぐるみ。
何の生き物を模したのか分からない(が、彼女はウサギだと言い張る)このぬいぐるみが、雨竜の家にやってきて1週間ほど経つ。



弾むように駆け寄ってきたぬいぐるみは、雨竜のズボンの裾を引っ張ると、腕の縫い目を見せて、不安そうな目で見上げた。
「ここ、ちょっとほつれてないか?」
「ああ…確かに。直そうか。今すぐがいい?」
「いや、後で構わぬ。じっとしておけば、綿も出んだろう」
雨竜はその柔らかな体をそっと抱き上げると、リビングへと向かった。
ぬいぐるみは嬉しそうに、けれども抱えられることにまだ慣れないのか、雨竜の肩にぎゅっとしがみつく。
その微かな力を感じながら、雨竜は思わず自分自身に苦笑してしまった。
相手はぬいぐるみで、布と綿でできているのは分かっているはずなのに、やれ不安そうだとか、嬉しそうだとか、自分も随分と順応してしまったものだ。








フルブリンガ―との戦いの中、対リルカ戦で、ルキアは勝利した。けれども、浦原商店に捕えられたリルカは、ルキアを元の姿に戻そうとはしなかった。
「あんな奴、ずっとぬいぐるみの中に入ってればいいのよ!」
おそらく、何かリルカの核心に触れることを、ルキアが言ってしまったのだろう。浦原は
「ま、そのうち気が変わって、戻してくれますよ」
と慰めたが、それがいつになるのかも分からない。一護はにやにやと笑って、
「コンといいコンビになりそうじゃねーか」
とからかうばかりだし、恋次は一生懸命心配してくれるけれども、もちろんそのまま尸魂界に帰るわけにもいかない。
大勢の好奇の目に囲まれて、ぬいぐるみではあるけれど、その顔が明らかに困惑し、恥ずかしさに耐えているのが分かる。
その姿を見た雨竜は、思わず言っていた。
「僕のところに来るかい?」
神経を消耗した戦闘の後で、どうかしていたんだ、と今になって思う。




リビングの椅子にぬいぐるみのルキアを置くと、制服のまま小さな台所に立ち、やかんを火にかける。お湯が沸く間に、マグカップを取出し、コーヒーを淹れる準備をする。ルキアがやってくる前からの、雨竜の習慣だ。
ぬいぐるみに入ってしまったルキアは、物を飲み食いすることができないので、いつもそれを眺めている。
そうして、ルキアに問われるままに、今日学校であったこと、空座町の虚の状況、リルカの回復具合なんかを話す。それが、新しい習慣になった。




雨竜の動きを見ていたルキアが、ぽつりと呟いた。
「石田はいいお嫁さんになるだろうな」
「…は?」
雨竜の動きが止まる。眼鏡を指で押し上げ、コーヒーの粉にお湯をそそぐ。
「何を言ってるんだか…」
眼鏡のグラスが湯気で曇る。ブルーマウンテンの香ばしい香りが、ゆったりと部屋中に広がった。
「だって料理は上手いだろう、家の中はいつもきれいだし整っている」
ぐるりと部屋の中を見渡して、ルキアは一人うんうんと頷いた。
「良妻賢母というやつだな」
雨竜は、眉間に皺を寄せたまま、カップを手にしてルキアの向かいの椅子に座った。
「男の僕は嫁いだりしないよ。それに家事ができる夫でも別に構わないだろう」
「それもそうだな」
ピンクのぬいぐるみはテーブルの上に頬杖をつくと、コーヒーを飲む雨竜を見上げた。
「石田はいい夫になるだろうな」
ただの黒いボタンに過ぎない、ぬいぐるみの目に浮かぶ意味を図りかねて、雨竜は手元のセピア色の液体に視線を落とした。






少しまずかったかな、と思い始めたのは、ここ数日のことだ。
ルキアを雨竜が引き取ることは、一護が少し不平を言ったくらいで、誰も反対はしなかった。織姫は大賛成してくれたし、茶渡だって黙って頷いていた。実際、最良の選択だったろう。
けれども、いざルキアを家に招き入れて一緒に生活を始めてから、雨竜は少し後悔した。
ぬいぐるみとは言え、中身はルキアなのだし、その動きや言葉は死神ルキアそのものだ。だから雨竜は、ぬいぐるみを見ながらも、そこに生身のルキアの姿を重ねてしまう。
ソファに座って考え事をしている姿や、楽しそうに笑う姿や、顔を真っ赤にして照れる姿を。
それでいてルキア自身は、ぬいぐるみ生活に慣れたのか、コンの影響なのか、遠慮なく雨竜にまとわりつき、しがみつき、頼ってくる。
だから、戸惑う。ぬいぐるみとは言え、女性を招き入れるのは軽薄だったかな、という後悔が、日を追うごとに少しずつ大きくなっているのが、自分でも分かる。




―いい夫。




例えば、こうして差し向かいでコーヒーを飲んだり。
最近読んだ本の話をしたり。
彼女が気に入りそうな小物を、繕ってみたり。
きっと彼女は、目をきらきらとさせて喜んで、それから―




次々に思い浮かぶ光景を、軽く目をつむって追い払う。まだ熱いコーヒーを一口すすって、雨竜はようやく口を開いた。
「…僕はまだ結婚できる年齢じゃないよ、デビ子さん」
「誰がデビ子だ、たわけー!!」
テーブルの上に飛び上がったルキアが、両手でポスポスと雨竜の胸元を叩く。
それを軽く笑ってあしらいながら、ぬいぐるみのふわふわとした腕を通して、白くて細い、柔らかな腕を思い描く。




もし彼女が元の姿になったとき、得意の鯖の味噌煮を気に入ってくれるだろうか―




なんて考えている僕は、多分、きっと、
どうかしている。










かんぱねるら通信のかなえ様に捧げます!石デビという素敵な妄想を教えて下さって、感謝感謝です!
手芸部×ぬいぐるみ、って確かに鉄板ですよねww いろいろせっせと作ってあげる雨竜を妄想して、また悶えてますv

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