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堕落した世界に愛と言う名の慈悲を





傾きかけた日差しの中、通りには無数の赤とんぼが舞うように飛んでいた。
ギンは一軒の小料理屋の暖簾をくぐると、三和土で草履を脱ぎ、奥にしつらえてある階段へと脚を向けた。奥から現れた店の主人が、その姿を認めてぺこりとお辞儀をする。
「いつもの」
ひらりと手を振ってあしらうと、主人は「へい」と頭を下げて再び奥へと戻った。


一階の店の中には数人の客がいた。廊下沿いの個室では、酒を傾けて楽しげに語り合う数人の男女の姿がある。護廷十三隊の隊長であるギンはそれなりに顔を知られているはずだが、誰もギンの訪れには気づかなかった。それほどに、風のように自然な振る舞いだった。だが、今日のギンが隊長羽織を着ていないせいもあるだろう。藤色の着物姿のギンは、いつも以上に飄々とした空気を漂わせていた。




使い古されて黒光りする階段は、ギンが足を乗せるたびにぎしりぎしりと音を立てる。普段ならさして気にならない音だろうが、苦しげに軋む音の一つ一つがギンの気持ちを波立たせた。そうして、足音までが気に障る自分に気がつき、思わず苦笑する。
何度、この階段を上ったことだろう。
その度にこうしてやり切れない思いを抱える自分を笑うのだが、かといってギンにはどうしたらいいのかも分からなかった。





階段を上がったところには廊下が伸び、その両側には個室の座敷が並んでいる。1階の個室よりは幾分広く、街を見渡せることから、それ相応の代金を払える者の間では重宝されている座敷だった。
幾つかの部屋は障子が閉められていた。既に客が入っているのだろう、小さな声が漏れ聞こえる。


ギンはためらう様子もなく、一番奥の座敷へと向った。障子は閉じられており、夕焼けを映して朱に染まっている。すらりと障子を開けると、部屋の中の開け放たれた窓の前に、夕日に包まれるようにして先客がいた。窓の外を眺めて座っているその人影には声をかけず、後ろ手に障子を閉める。たん、と障子が閉まると同時にその人影が振り向いた。
「これは、市丸隊長」
「気づいてたんやろ?ルキアちゃん」
ルキアの背後には、燃えるような夕焼けが広がっている。問いには答えず、ルキアは少しだけ首をかしげて微笑んだ。さらり、と黒い髪が流れる。



ルキアは時折、ここへ来ては外を眺めている。そのささやかな時間に何を思うのかは知らないが、ある日その姿を見つけたギンは何の断りもなく部屋に入り込み、ルキアもまた何も言わずそれを受け入れ、そんな不思議な逢瀬も片手を超えるほどになっていた。
傍から見れば「逢引」と噂されても仕方のない状況なのだが、生憎そんな艶っぽい事態に至ったことはない。女はぼんやりと外を眺め、男はそれを眺めながら酒を飲む。不思議な逢瀬だった。





ルキアが座りなおすと、ちりん、と涼しげな音が響いた。見れば、帯に銀細工の鈴が結わえてある。ギンが数週間前に贈ったものだ。思わず、ギンの口元がほころんだ。
「使うてくれてるんや」
「いつものが壊れてしまいましたから」
決して気に入ったからではなく、代わりがなかったからだと―



かたり、と障子の外で音がした。店の者が酒肴を持ってきたのだろう。ギンが腰を上げて取りに行こうとすると、ルキアがそっと片手で膝を押さえてその動きを止めた。
「今日は私に酌をさせて下さい」
「珍しいこともあるもんやね」
「今日は夕日が綺麗でしたから」
決してギンのためではなく、たまたま興が向いたからだと―






するり、と手の中を抜ける言葉、振る舞い。
いつもならそれは自分の専売特許なのだが、いざ自分がされる側に回るとギンはどうしたらいいのか分からなくなってしまう。それが、少なからぬ愛しさを抱く相手ともなれば尚更だ。






ギンはおもむろに懐から小さな包み紙を取り出すと、ルキアの手にそっと置いた。大きな瞳が、驚いてギンを見上げる。
「何ですか?」
「開けてみ」
かさかさとこそばゆい音を立てて包み紙を開くと、中から小さな合わせ貝が現れた。ルキアの手のひらにすっぽりと収まるそれは、表面に繊細な花の模様が描かれていた。何の花なのかギンには分からないが、ルキアであれば知っているだろう。所々に貼られている金箔が、部屋の隅に灯された行灯の明かりできらきらと輝く。
「綺麗」
ルキアは高く掲げて光にかざすと、小さな歓声をあげた。
飽きることなく眺めるルキアは小さな貝を手にしたまま、ぽす、とギンの肩にもたれかかった。そのささやかな重みに、ふわふわと浮き立つような眩暈を覚える。着物を通して伝わる体温は、ギンのそれよりも少しだけ高い。


ふと、華奢な指が合わせ貝を開いた。貝の内側には口紅が塗られており、鈍い色を見せて光っている。
にこりと笑ったギンが見つめる中、小さな芸術品は唐突に美しい放物線を描いた。
ぽとり、と畳の上に落ちたそれはしばらくくるくると回っていたが、その動きもやがてゆっくりになると、花が萎れるように音もなく倒れる。呆気に取られて固まる空気の中でルキアは何事もなかったかのように座りなおすと、窓の外を見遣った。
「紅は使いません」
「せやから、点したら似合うんやないかって―」
「使わぬ物は要りません」
きっぱりと結ばれた唇は、確かに紅を差さなくても十分に紅く、そして必要以上に扇情的だ。









飼いならされた猫のような目で甘えたかと思えば、ギンが買い与えた紅を投げ捨てる。
舞い上がろうとした矢先に、奈落の底へと堕ちてゆく。
身体の奥底で何かがぎしぎしと軋む。
頼むから誰か言うてくれ
この痛みが何かの間違いだと



綺麗な夕日は好きだと言う
気が向けば、贈り物も身につけてくれると言う
しかし使わぬ物は要らぬと言う
確か、花は好きだった
香りものは拒まれた
何がこの娘の好みなんや?
先日の珊瑚のかんざしは、誰かの贈り物やなかったか?









途方に暮れたギンは、絶望に打たれたまま隣に座るルキアを見下ろした。
「君はいったい何が欲しいんや」
ギンの視線の下でことりと小首を傾けると、ルキアはしばし思案した。長い睫毛が、音を立てるのではないかと思うほどにゆっくりと重たげに瞬く。
「貴方という人は…」
すっと音もなく持ち上げられた細く白い指先が、ギンの頬に柔らかく触れる。指はそのまま流れるように顎を伝い、そのささやかな感触に体中がぞくりと粟立つ。
「言って差し上げねば分からぬのですね」
少し開かれた口の奥で艶かしく動く舌に目を奪われたその刹那、柔らかくあたたかいものがギンの唇に触れた。









目の前にルキアの白い頬とつややかな睫毛がある。
がらんとした部屋の中で、ちりん、と鈴の音が響く。
女性特有の甘い香りが、濃くまとわりつく。
視界の端で、打ち捨てられた合わせ貝がきらりと光った。






ルキアの唇は小柄な身体のとおりに小さく、そしてひやりとするほどに柔らかかった。だがそれでも、ギンの全てをふさぐには十分だった。思考も、身体の動きも、全ての感覚がふさがれてしまう−触れ合う唇以外は。



ちゅ、とおよそ不似合いな卑しい音を立てて唇を離したルキアは、唇を光らせながら嫣然と笑う。
どくどくと体中の血が波打つ。
薄い唇が燃えるように熱い。
ぐらりと視界が揺れる。
返すべき言葉が浮かばない。
ギンの顔が朱に染まって見えるのは、夕日のせいばかりではないだろう。






「私が欲しいのは―」
ギンの見開かれた細い目を仰ぎ、紫紺の瞳が妖しく微笑んだ。









「―蒼い眼をした、銀色の狐」









鬼さん、こちら
鈴のなる方へ









どうぞ此処まで 堕ちていらっしゃい











カナヤ様に捧げます、いつもの感謝を込めて!「積極的なルキアと純粋なギン」というリクでしたが…
なんだかこれではルキアがただの嫌な女に…お気に召さない場合は返却可です!でも押し付けちゃえ!!(コラ)


御題配布先…1204

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